歴史的大恋愛!大恋愛の末に結婚した「歴史上のカップル」を大調査!
歴史上で活躍した偉人たちの陰には、伴侶の尽力があったことは珍しくありません今ほど女性の社会進出がされていなかった昔は、家庭を守り、夫を支える女性は良妻と呼ばれていましたよね。「歴史の影に女あり」と言われるように、歴史に名を遺す偉人には、必ずと言っていいほど影で支える妻の存在があります(もちろん男性が女性を支えている場合も!)。
そこでこの記事では、日本のみならず世界に名を遺した歴史上のカップルを大調査!大恋愛の末に結婚した歴史上の人物たちを4組ご紹介します。歴史上の人物の見方がかわるかもしれませんよ。
目次
これぞおしどり夫婦!日本史に残る夫婦愛
日本には、夫の働きや活躍を支える妻の功績を表す「内助の功」という言葉があります。「縁の下の力持ち」「鶏鳴の助」も同じような意味です。「内助の功」と呼ぶのにふさわしい人物が歴史上にはたくさんいます。活躍した歴史上の人物を支えた妻は、いったいどんな人物なのかみていきましょう。
【日本の歴史上のカップル1】豊臣秀吉とねね
豊臣秀吉とねね夫婦は、たびたび時代劇でも描かれることがあるため、ご存じな方も多いかもしれません。戦国時代の結婚といえば、家と家とを結ぶ同盟という意味合いが強く、ほとんどが政略結婚でした。
しかし秀吉とねねは、当時の日本ではまだ珍しい恋愛結婚だったと言われています。しかも秀吉は農民出身。結婚当初は、まだ織田信長に仕えたばかりで収入もあまりなかったうえ、ねねの方が身分も高かったので、結婚は異例中の異例と言えるでしょう。
ねねは、織田信長や徳川家康とも親交があり、秀吉を支えていました。また、ねねは正室でしたが子どもがいなかったため、秀吉はその後、何人か側室を迎えることになります。
秀吉はかなりの女好きで浮気ばかりしていたようですが、側室を迎えた後も、ねねを冷遇したり離縁したりすることはなく、ことあるごとにラブレターをしたためていたようです。側室を何人迎えても浮気をしても、ねねを心から愛していたのですね。
【日本の歴史上のカップル2】明智光秀と煕子(ひろこ)
明智光秀といえば、本能寺の変を起こした人物として教科書にも載っています。謀反人、反逆者のイメージが強い明智光秀ですが、実は愛妻家としても有名です。跡継ぎの男子をもうけるため、正室の他に側室をもつのが当たり前だった戦国時代に、明智光秀は煕子ただひとりを伴侶にしました。
光秀の愛妻家ぶりが分かる有名なエピソードがあります。光秀との結婚直前に、煕子は疱瘡という病気にかかり、顔に跡が残ってしまいました。そのため煕子の両親は、煕子の代わりに妹との縁談を持ちかけます。しかし光秀は煕子を心から愛していたため、結婚する意思はゆらぎませんでした。
めでたく結婚をした後も、煕子は自慢の長い髪の毛を売ってお金を工面するなど、苦しい時も献身的に光秀を支えました。残念ながら煕子は若くして病気で亡くなってしまうのですが、光秀は最後まで、看病を続けたと言われています。
お互い一途に支え合った理想的な夫婦ですね。裏切り者という印象が強い明智光秀のイメージが変わりそうな素敵なエピソードです。
世界を動かした夫婦の愛!スケールの大きな大恋愛
時代背景から、日本の場合は女性が男性を支えるというパターンがほとんどですが、世界に目を向けると、男性が女性を支えた場合もあります。また時代に翻弄され、離れ離れになりながらも愛を貫いた夫婦もいます。それでは、世界における歴史上のカップルをみていきましょう。
【世界の歴史上のカップル1】アルバート公とヴィクトリア女王
1837年、18歳で女王の座に即してから66年以上にわたり大英帝国を統治したヴィクトリア女王は、従兄弟であるドイツ人のアルバート公と結婚します。ヴィクトリア女王は、やさしくてハンサムなアルバート公にひとめぼれ! しかし、ヴィクトリア女王の伯父であり当時の国王ウィリアム4世はこの結婚に反対でした。アルバート公が外国人であったことから、イギリス国民からも最初のうちはあまり歓迎されていなかったようです。
そんな逆風のなかアルバート公は、出産と育児に追われて公務をおこなえないヴィクトリア女王に代わり、政治手腕を発揮します。また1851年におこなわれたロンドン万国博覧会を大成功に導き、イギリス国民からも認められるようになりました。
ヴィクトリア女王とアルバート公は子宝に恵まれ、4男5女をもうけました。しかし結婚から21年、アルバート公は42歳の若さで腸チフスにより亡くなってしまいます。ヴィクトリア女王はアルバート公の死を深く嘆き、10年以上ひとりでひっそりと暮らしました。81歳で亡くなるまで、喪服を着て過ごしたというのは有名な話です。
亡くなってからも一途にアルバート公だけを想い続けた、ヴィクトリア女王の愛の深さに心が揺さぶられますね。
【世界の歴史上のカップル2】愛新覚羅溥傑と嵯峨 浩
最後にご紹介するのは、少し番外編的なふたり。清朝と満州国のラストエンペラー、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟である愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)とその妻、嵯峨 浩(さがひろ)は、激動の時代を生きたおしどり夫婦として知られています。
清朝皇帝の弟と日本人の公家華族である令嬢との結婚は、当時ひさしぶりの明るい話題として、日本中から祝福されました。このふたりは恋愛結婚ではなく、いわば政略結婚でしたが、溥傑は浩のお見舞い写真にひとめぼれし、浩も溥傑の聡明で誠実な人柄に惹かれ、すぐに恋に落ちたと言われてます。
その後、溥傑と浩の間にはふたりの女の子が生まれ、しばらくは幸せに暮らしていましたが、溥傑は太平洋戦争の戦犯として兄、溥儀とともに捕らえられ、ソ連の強制収容所に15年もの間、収監されてしまいます。その間に、大学生になっていた長女慧生(えいせい)が恋人と心中するなど、悲しい出来事が続きました。
模範囚として釈放された後は、浩とともに北京に移り住み、第二の人生を歩みます。日本にも夫婦で何度か里帰りをしたそうです。時代に翻弄された溥傑と浩でしたが、晩年は夫婦仲良く、穏やかに暮らしました。
歴史上に残る、ドラマチックな大恋愛
日本と世界における、歴史上の人物の大恋愛をご紹介しました。どの夫婦もドラマチックで魅力的。一途な愛を貫いた夫婦の話に、胸が熱くなります。今回ご紹介したのは、ごく一部です。大恋愛を成就させ結婚したカップルは、まだまだたくさんいるので、興味がある方はぜひ調べてみてください。